ドイツでつかんだ青春哲学 「青いトマト」   山田みち子著

 
プロローグ  ドイツに行くよ
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草間みちこは、筑波山を東に控えた田園地帯のど真ん中で宣言した。

ドイツに行くよ
聴衆は友人数人とカエルの集団。鬼怒川の堤の菜の花が午後の陽ざしにキラキラ光っていた。
 「ドイツってどこだ」
 小学二年生の聞き手達にはドイツは東京と同じぐらい遠い。カエルのほうがまだ反応が大きい。

 その夜、村人が抗議にやってきた。
 「お宅のお嬢さんがね」
 教師をしている父、草間潤一は村では一目置かれた存在だった。
 「馬鹿な話をしていたので、ちょいと話さねばと思ってよ」
 父は外面がいい。茶とお菓子をすすめながら、馬鹿な娘の話題に耳を傾けた。
 「こともあろうにドイツにいくんだとよ。でっかい声で夢みたいな話をしてたんだよ」
 草間潤一は急に顔がほころんだ。
 「そりゃそりゃ」といいながら、茶を口元に運んだ。
 「盆踊りでねえ」村人は笑いながら続けた。

 「いつもお世話になってすみませんね」
 母親、草間てい子が台所から顔を出してきた。手には細長い包みを持っている。
 「これ、持って行っておくんなさいね」
 母は、お中元、お歳暮に頂いたカルピスやビールを常時台所に用意しておき、村人が立ち寄るたびに渡していた。

 「みちこ、来なさい」
 客が帰った後、父親が大声で呼んだ。一度で行かなければ機嫌が悪くなる。母親が慌てて別棟の子供部屋に走った。
 「お父さんが呼んでいるからきなさい」
 
 草間家では父親は絶対権力者だった。逆らうものはいない。口答えなどもってのほかだった。
 「とうちゃんが?」
 当時小学二年の私には、もちろん呼ばれる理由がわからなかった。父親は机の前に正座して書き物をしていた。背筋が伸びた後ろ姿はりんとした威厳が漂っていた。

 「みちこを呼んできました」
 母親はそういうとすっと消えた。台所には主婦業がまだ山のように残っていた。
 
 「お前はきょう、寄り道をしたのか」
 草間潤一はゆっくり筆を置いてから後ろを向いた。
 「さっき、村の関さんがきて、お前がおおぼらを吹いていたといってきたんだが」
 残り物の菓子を口に運んだ。糖尿病のことは忘れている。

みちこは何のことかわからなかった。
 「ドイツに行きたいんだって?」
 父親の最後の言葉でやっと理解できた。なんだそんなことか。

 「うん」
 草間潤一は急に笑顔になった。菓子がうまいからというわけではないようだった。
 「行きたいよな。僕が行きたいよ」
 「ボク?」
 みちこは父親がボクというのを聞いて驚いた。
 「ドイツはいいよな。ダンケ!大学で専攻した言葉もドイツ語だし、行きたいよな」

 わたくし、草間みちこは幼いころから父親、草間潤一からドイツ行きを洗脳されていた。
物心ついたころから、ドイツの写真集を渡され、美しい白鳥のいるリューベックがハンザ同盟の都市だと説明された。ありがとうを覚えたころ、すでにダンケとダンテの違いを説明された。掃除をしていると、哲学者カント流の掃除はこうするんだと本箱から本を全部取り出し、三分法の整理の方法を教えてくれた。

 ボクというときの草間潤一は青春時代を思い出すときに発する言葉だった。ドイツは青春の思い出だったに違いない。7歳のみちこは何も考えず、次の言葉を待った。

 「この村ではドイツは遠い国だ。だが、おまえは行け。 これからは世界を見ないとだめだ。
それにはまず本を読まないとな」
 
 その時の記憶はあいまいだったが、その言葉だけは鮮明に残っている。