ドイツでつかんだ青春哲学 「青いトマト」   山田みち子著

 
第7章 7 ダンケ シェーン
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 日本への帰郷が近づくと、みちこは悲しみの中に徐々に沈んでいった。毎朝、枕元がびっしょり濡れていた。 別れの朝は雷が遠くで鳴り響いていた。

 「みちこ今日は別れの朝だから、いっしょに食べよう」
 マリアが呼びに来た。
 ミナ、マリア、カール、アン、そしてロルフが待っていた。
 「今日で最後ね」
 ミナは朝からみちこのためにパンを焼いた。柔らかいパンはお袋の味になっていた。
 「必ず戻っておいで」
 ミナはまた繰り返した。マリアもそっくりミナの言葉を繰り返した。

 玄関で見送るミナの目から涙がこぼれ落ちた。涙を払ってミナはロルフに命じた。
 「さあ、みちこをフランクフルトまで送っておくれ」
 「もちろん自分の交通費は自分で出しなさい」
 母親の命令は絶対だ。ロルフは笑いながらみちこの荷物を持った。

 
シュトゥットガルトからフランクフルトまでの短い旅の間、二人は静かに語り合った。二人はお互いに出会ったときのことを思い出していた。

 「クライネ ピザ」
 みちこがつぶやいた。
 「クライネ ミチコ
 ロルフは小さな笑みを浮かべた。

 「ところでドイツの彼女との結婚はいつ?」
 みちこの質問にロルフは目を閉じた。
 「結婚なんてしないよ」

 みちこは驚いてロルフを凝視した。
 「あれはあくまで予定。相手がまだいない」
 ロルフは笑った。それは楽しさからではないようだった。
 「ミナを安心させるため。そして」
 ロルフは言葉を続けた。
 「みちこの心を安定させるため」
 みちこはロルフの次の言葉を待った。

 「みちこはぼくを愛してはいなかった。ただ寂しいから、生きる気力がないから、ぼくの後についたきた。あのときのきみはこの世の人間ではなかったよ。そんなきみにぼくは恋をした。ミナから言わせるとすぐその気になる馬鹿息子らしい。ミナはぼくからみちこを守ると宣言した。あの夜に。きみには分からないバイエルンなまりのすごい早口だったよ」
 そんなことがあったなんてみちこは全く気がつかなかった。
 「まあ、ぼくの生活も道からかなりそれていたが」

 ロルフとみちこの間ではドイツ語が通じることが当たり前になっていた。
 「みちこには内緒だったけれど、当時のぼくはまともな仕事をしていなかった。みちこにいったらすぐ嫌われてしまいそうだった。ナイトクラブで経理の仕事をしていたんだ。フィリピーナもそこで働いていた。その子といっしょに暮らしていたが、前にも言ったとおり、けんかして、くさくさしていた夜だったんだ、きみと出会った夜は」
 ロルフはもう隠し事はしないと全てを正直に話していた。
 「まあまあ・・・」 
 みちこはやっとミナの話していたことが理解できた。
 「みちこはぼくと違う。日本の大学を出て、目的を持ってきていた。すばらしいご両親に育てられた大切な娘さん。ミナはそういってぼくから切り離した。当然だ」
 そういうことがミナとロルフの間にあったとは。

 「あれから、ぼくなりに考えた。今は広告代理店の受付をしている。みちこに誇れるようになるまでがんばるよ。結婚は当分しない」
 ロルフ・バーンは草間みちこの手を握り
「ありがとう」と日本語でいった。
 「わたしこそ」
 みちこはドイツ語で小さくいった。次の言葉が出なかった。ロルフがいたから、人生が開けた。ロルフがいたから、死とさよならできた。感謝の言葉が出なかった。
 結婚や恋愛とは違う。大きな感謝がロルフに、それを支えているミナの家族、そしてドイツへと徐々にふくらんで、涙が体全体からこみ上げてきた。
 
 フランクフルト空港の待合室は混雑していた。大きなガラスの外には真っ赤な太陽があった。
ロルフと出会い前のロンドン空港のように。
 「ロルフ、
ダンケ シェーン
 みちこは柔らかいソファに座り、夕焼けを見つめた。さようならはいいたくなかった。
 「アピタゼーエン」
 またお会いしましょう。しかし、これはさようならの意味だった。
 「ロルフ、ミナにもどると伝えてね」
 最後の言葉は喉元につまって、言葉にならなかった。

 「ありがとう、みちこ」
 ロルフの日本語がみちこの後姿を追うように聞こえてきた。

 「君が画家として成功することを祈っているよ」
 ドイツ語が続けたが、その言葉はみちこには届かず、周囲の騒音に消えていった。